豊後でも大友氏とは無関係 難問中の難問?・大分府内城

 

過去の城郭検定問題には、

「この問題を解ける人がいるのだろうか、いや、いまい」

と、思わず反語的表現で自問自答してしまうような難問(鷹橋比)が存在します

その1つが

「宗門櫓(しゅうもんやぐら)と人質櫓が現存、戦後、大手門や廊下橋などが再建された城は?」(正解 大分府内城)です。

 

「こんなのわかんないよ! わかるわけないよ!」と、Twitterで大騒ぎしたところ(どうしても黙って勉強できない)

Twitter仲間のmoch様が

「これだよー」と教えてくださいました。↓

 

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お陰様で、鷹橋の脳内では「宗門櫓、人質櫓といえば、大分府内城」 の図が完成しました。moch様、ありがとうござい٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

府内城は、大分市荷揚町に所在し、「荷揚城」ともいいます。(『日本城郭大系』には「荷揚城」で記載されています)

東は大分川、北は海に面した縄張りの府内城は、白土の塀が水上に浮かぶようなその姿から、「白雉(はくち)城」とも呼ばれています。

 

大分(豊後)といえば大友氏、大友氏といえば大分ですし(鷹橋は大友氏が一番の推しです)、大分の「府内」城とくれば、「大友氏の本拠だったのでは?」と思われる方もおられるかもしれません。

ところが、ぎっちょん(古い)、府内城は大友氏の城ではありません。

大友義統公(大友宗麟の子)が改易になり (; ;)ホロホロ

大友氏が国を去った後に造られたお城なのです。

大友氏滅亡については(滅亡といっていいのかわかりませんが)、いずれ詳しく書かせて頂きます。

 

築城時には、石垣の石が足りなかったため、船頭に大石を必ず積んでくるように命じ、石の重量によって銀子を払うという触れを出したといいます。ですが、いざ船が集まると大幅に値切ったため、 怒った船頭たちは石を海に投げ捨てて帰ってしまった。

そのため、それを拾い集めて石垣に積んだというエピも残っています(『日本城郭大系16 大分・愛媛・宮崎』)

『日本城郭大系』では「真偽の程は定かでない」としていますが、もし、真実なら、船頭さんは骨折り損のくたびれもうけで、築城側は本当に儲けたような気がします。短気は損気ということでしょうか(違う)

 

お城は究極の戦闘施設でありますが、府内城では戦闘が行なわれたのは、ただの1度です。

明治10年に、西郷隆盛の挙兵に応じた増田宋太郎氏率いる70人の中津隊との間で、5時間にわたる激し戦いが繰り広げられましたが、退却させています。(『日本城郭大系』より)

 

出火や戦災により、現存の建物は先出の「宗門櫓」と「人質櫓」のみですが、『日本100名城 公式ハンドブック』で見る限り、平成7年に再建された「廊下橋」も水の上に架かって風情があります。

大友関連の史跡を巡りたいと思っているので、大分には一度は伺うつもりでいます。その際には、関サバとアジを食べる、いえ、府内城にも立ち寄ってみたいと思いました。

 

最後に、moch様、画像のご提供ありがとうございました。

moch様のツイートは、かなりレアなお城のお写真を掲載なさっておいでなので、お勧めです。

moch(@moch1514)さん | Twitter