鷹橋はこんな本を書いてしまうほど、
海の民に、並々ならぬ憧れを抱いております。
それはたぶん、私の前世は「海を見たこともない山の民」だったからではないかと、推測しています。
田を耕し、あるいは木を切りながら、果てしなく広がる海と、大海原を自由に駆け巡る海の民に思いを馳せ、汗を拭っていたような気がします。
というわけで、水軍への思いも、暑苦しく語っていこうと思います。
「水軍」と聞いてまず思い浮かぶのは、「村上水軍」と、「九鬼水軍」ではないでしょうか。
村上水軍も後にたっぷり語り倒しますが、
Twitter仲間のたこぽん様
から、九鬼氏の城「鳥羽城」のお写真を頂いたので、
まずは九鬼水軍を取り上げさせて頂きたいと思います。
「九つの鬼」と、何やら恐ろしげな名字を抱く九鬼氏は、志摩半島を拠点とする海賊で、戦国期には志摩一国を支配しました。
一族で最も名が知られるのは、やはり、九鬼嘉隆公(よしたか)でしょう。嘉隆公の時代に九鬼氏は、伊勢侵攻を始めた織田信長麾下の水軍となりました。
嘉隆公が信長公の命により、鉄甲船(本当に鉄甲だったかは諸説あるようですが)を設計・造船し、天正六年の第二次木津川の戦いでは、鉄甲船からの艦砲射撃で、日本最強と謳われた村上水軍を含む、約六千隻の毛利水軍を撃退したという話は、あまりにも有名です。
この戦功により、嘉隆公は信長公より志摩七島、摂津野田などを加増され、後に鳥羽城(三重県鳥羽市)を築きました。
いわば船と大海原が居の海賊衆にとって、陸上に構えた不動の豪壮な城は、まさに「夢の結晶」だったのでしょうか。嘉隆公は、自分の墓は、鳥羽城がよく見える答志島の和具の山頂と決めていたといいます。(『海の戦国史 海賊大将の栄光』に寄稿された吉田兼明氏の記事より)
諸説あるものの、嘉隆公の死後、その首は念願叶って、答志島の丘に埋葬されたと伝わります。鳥羽城がなくなった現在も、海の大将軍は、夢の証だった鳥羽城の面影を見下ろしているのでしょうか。
たこぽん様、画像提供ありがとうございました