一乗谷が語る越前朝倉氏の栄華と滅亡~『滅亡から読みとく日本史』に登場する一族

 

縁起ででもないヤツですが、鷹橋は昔から、洋の東西を問わず、一族や国の「滅亡」が大好きです。

 ですので、

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は、むちゃくちゃ張り切って書きました。

 

 平氏、源氏、武田氏、今川氏、北条氏……。

 栄華を誇るも、表舞台から消え去り、「滅亡」した一族は、日本史上、数多く存在します。

 いつの世も、滅びゆく者たちは鮮烈に美しく、心に焼き付いているのですが、私がとりわけ、「滅びの美学」を感じるのは、「越前朝倉氏」と、その本拠地の「一乗谷」です。

Twitter仲間の、つむあお様と、たこぽん🦑🐙様に一乗谷のお写真を頂いたので、

 


滅びのロマン漂うお写真と共に、朝倉氏と一乗谷を紹介させていただきます。

なお、お写真はお二人のものですので、無断使用はお控えくださいませ

(朝倉氏は『滅亡から読みとく日本史』P89~朝倉氏の滅亡に登場します)

 

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 (画像提供 つむあお様)

 

 越前朝倉氏といっても、発祥は但馬(兵庫県北部)で、但馬国の地方豪族として勢力を伸ばした日下部氏の一族です。この日下部氏の先祖の表米親王人皇三十七代孝徳天皇の皇子)は、大鮑に助けられたという伝説をもちます。そのため、朝倉氏には代々、鮑を食さない風習があるといいます(『朝倉氏と戦国村一乗谷』松原信之氏)。なんとご先祖様を大切にする一族なのでしょう。

 

 

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(画像提供 たこぽん様)

 

 越前朝倉氏七代目・朝倉孝景公が主家・斯波氏に取って代わり、朝倉氏を越前一国を治める戦国大名へと導きました。

 孝景公を戦国大名朝倉氏の初代とし、以降、二代氏景公、三代貞景公、四代孝景公(初代と同名)、最後の当主となる五代義景公まで五代約百年にわたって、この地域と幕府に重要な地位を占める大名家として存続しました。 

 朝廷に、多額の即位料や内裏修理料を献じていることからも、その国力の充実ぶりが伺えます。

 

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(画像提供 つむあお様)

 

 応仁の乱後、荒廃した京都から地方へ下る文化人はしだいに増えていきました。朝倉氏の本拠・一乗谷にも、多くの文化人が訪れており、「北陸の小京都」とまで謳われるほど、繁栄していました。

 最後の当主・朝倉義景公は、永禄一〇年(一五六七)、一乗谷の安養寺の御所に、足利将軍・義昭を迎え、膨大な費用をかけて歓待し、義昭ら一行は、能や弓遊び、酒宴に興じる、贅沢三昧の日々を送ったといいます。

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(画像提供 たこぽん様)

 

 そんな朝倉氏も、織田信長公に敗れ、直系は滅亡します。

 本拠の一乗谷も、信長公の先兵により三日三晩にわたって放火され、城下町も灰燼と化します。

 朝倉氏の滅亡後、一乗谷は都市として再興することはありませんでしたが、遺跡として良好に保存されました。一九六七年から進められた遺跡の発掘調査により、武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘され、朝倉氏の栄華とその末路と、人の世の儚さを語りかけているのです。

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(画像提供 つむあお様)

 私は、朝倉氏の滅亡を見届けた一乗谷に「永遠に続くものは何もない」という儚さを感じると同時に、今も残る史跡に「歴史は永遠である」という、相反する思いを抱きます。

「滅びの美学」を体現したような朝倉氏と一乗谷に、永遠と刹那のロマンを感じませんか。

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 (画像提供 たこぽん様)

つむあお様、たこぽん様、画像提供ありがとうございます。