前回は
頼みの綱である北条方の兄者たちの撤退により、景虎公の運命は如何に!
というところまででした。
続きも清様↓
のお写真とともに、見て参りましょう(ΦωΦ)フフフ・
景虎公の頼みの綱の北条軍が撤退する中、勢いづく景勝公は家中の支持を集めていきます。そうなると、景虎側は、相次ぐ離反や落城を止められず、窮地に陥っていきます。
そして天正7年(1579)2月1日、景勝公は雪解け前の乱の収束を決心して、配下諸将に御館の総攻撃を命じます。 >*0*<キャアアッ
小田原北条の橋頭堡であった樺沢城も奪回され、
援軍も望めないまま、3月17日には謙信公の養父であり元関東管領・上杉憲政公が和議を求める為に景虎公の長子・道満丸を連れて御館を脱出し、景勝公の陣を目指すも途中で景勝勢に囲まれ殺害されてしまいます (; ;)ホロホロ
御館の落城により、景虎公正室は、実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害し(享年24歳 若すぎ上杉)、また、他の子供達も両親とほぼ同時期に死去したものといわれます。
御館を脱出し、孤立無援となった景虎公は鮫ケ尾城を経由して
しかし、鮫ヶ尾城主・堀江宗親公の謀反に遭って、自害を余儀なくされてしまうのです(; ;)ホロホロ。
享年26とされます。法名は「徳源院要山浄公」。
鮫ヶ尾の主郭からは春日山城もよく見えるそうです。上杉景虎公も、最後にこの光景を見たのでしょうか。
ここで、景虎公の滅亡の地となった鮫ヶ尾城のお写真を見ていきましょう。
やたら堀切が多くて、凄いお城なのです
↑ここは雨で降りられなかったそうです
なんと、今も現役の井戸。山城に井戸は欠かせません
お酒は、どなたかのお供え?
鮫ヶ尾城主郭
二郭↓
三郭
米倉↓
米倉から見た主郭↓
越後を二分した内乱(御館の乱)は、景勝公が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となりました。
しかし、最後まで抵抗した本庄秀綱公や神余親綱公らを攻めて最終的に乱が収束したのは、それから1年余り経った天正8年(1580年)のことであったといいます。
多くの血が流れた内乱でしたね。
これにて、このブログの御館の乱も完結とします
清様、たくさんのお写真をありがとうございます
清様の北条ならぬ訪城ブログはこちら
↓
seinosuke2016blog.blog.fc2.cokyo
2018年9月22日追記
清様よりご指摘を頂いたので、訂正&追記をさせて頂きます
鮫ヶ尾城の2郭と3郭が違っていて、こちらが2郭です↓
こちらが3郭です。↓
こちが2郭に行く道から見下ろした3郭です。上の写真だとわかりづらいかもしれなせんが、別の郭だそうです
↓
ここからは追加情報です
鮫ヶ尾城の麓に館跡(注※景虎公の館ではありません)といわれる勝福寺があり、そこに景虎公の慰霊碑があるので、ついでに訪れるのもお勧めです
以上です
清様、お写真&情報をありがとうございます。