萌える世界史シリーズ始めました 第1弾はネルソン提督

 

 自分でも何を目指しているかわからないのですが、萌える世界史シリーズ始めました。

 実は世界史も、かなり断片的ですが、大好きなのです (ΦωΦ)フフフ・

 文字通り、鷹橋が萌える世界史をご紹介したいと思います

 

 鷹橋が萌えるのは、まず海の男です

 というわけで、第一弾はネルソン提督です

 

 

 隻眼、隻腕のイギリス最大の英雄の戦いと恋の行方は?

【ホレーショ・ネルソン一七五八年~一八〇五年 イギリス】

 

 

 ホレーショ・ネルソンとは、イギリス最大の英雄ともいわれる海軍名提督だ。父親は教区牧師だったが、伯父(母親の兄)のモーリス・サクリング艦長は、その方面ではいくらか名の通った海軍士官であった。このサクリングの一言が、ネルソン提督の誕生に一役買うことになる。ネルソンが九歳の時に、母親が八人の子供を残して亡くなった。弔問に訪れたサクリングは、こう約束した。
男児のうち、一人の将来は私が面倒をみよう」
 母親を亡くした悲しみの中でも、ネルソンは伯父の言葉を覚えていた。三年後の一七七〇年、ネルソンは父親に「伯父さんに『海軍に入れてくれ』と頼んで欲しい」と、兄を通じて申し入れた。海や海軍の憧れというよりは、父親が病身のため家計は逼迫していたので、口減らしに自活する必要を感じていたからだと見られている。
 サクリングはネルソンが海軍に入れるように取り計らった。ネルソンは十二歳で入隊となり、サクリングが艦長を務める六四砲門鑑の「レーゾナブル号」の乗船が決まった。
 ネルソンは、レーゾナブル号にたどり着くまでの間、見知らぬ土地を寒空の中、ただ一人で彷徨った。ようやく船にたどり着いても、サクリンクは不在で、おまけに誰もネルソンの到着を知らされていなかった。誰一人話しかけてくれる人もないまま、ネルソンは終日、甲板上を行ったり来たりして過ごしたという。
「こんな惨めな思いをせずにすむように、強くなろう」とネルソンは固く誓った。
 ネルソンは伯父の人脈だけでなく、自身の実力を発揮し、異例のスピードで昇進していく。入隊の翌年、ネルソンはある商船の水夫として西インド海域に送られ、熟練した船乗りとなって帰還した。しかし、体はけっして頑強ではなかった。
 一七七四年から東インド方面に勤務するも、インド洋にてマラリアに罹患。一七七六年八月には本国に帰還している。一七七七年四月には海尉任官試験に合格。ジャマイカ行きを命じられ、第二海尉としてローストフト号に乗艦した。一七七八年一二月にブリック型バジャー号の海尉に昇進し、一七七九年六月には、フリゲート艦ヒンチンブルック号の艦長となった。
 その後の遠征で赤痢に罹ったため、一七八〇年に本国に帰還し、バースで休養した。しかし、一七八四年には予備役を返上し、フリゲート鑑「ボレアス号」の艦長として西インド海域へ向かった。
 一七九四年、コルシカ島での戦闘では、右目を失う。砲弾が近くに落ち、飛び散った破片や砂礫が眼に入ったのだ。それでも、妻宛ての手紙で、こう嘯いている。
「男前が損なわれるほどの傷じゃない」
 なお像画に見られるような黒い眼帯を、ネルソンは一度も着けてたことはない。
 一七九七年には、さらなる試練が訪れる。カナリア諸島のサンタ・クルーズを襲撃した際に、ネルソンは敵が一斉射撃を浴びせる中、一握りの部下と共に上陸した。その時、ぶどう弾が肘を貫通したため、右腕を切断したのだ。隻眼、隻腕となったネルソンは「友人たちの重荷となり、祖国にとって無用の存在となる」と意気消沈し、本国に帰還した。
 だが、杞憂であった。海軍当局は、ネルソンの優れた才能を放ってはおかなかった。翌年の一七九八年三月にはヴァンガード号に乗艦した。八月一日には「明日の今頃には、貴族になっているか、ウエストミンスター寺院に葬られているかの、二つに一つだ」と、ナポレオンのエジプト遠征の護衛艦隊を、ナイル河口のアブキール湾で撃滅。ナポレオンは一時エジプトで孤立し、遠征は失敗に終わった。
 アブキール湾での戦いに勝利したネルソンは、疲れ果ててナポリに上陸した。そんなとき、駐ナポリ大使で、友人のサー・ウィリアム・ハミルトンから「私の邸宅で療養しないか? 妻のエマも喜ぶ」と誘われ、ネルソンは快諾した。
 このエマ夫人とネルソンの不倫は、あまりに有名だ。ハミルトンは妻の浮気を「ネルソンは英国に必要な人材であるから」と黙認し、ネルソンとも終生、友好を保っていたといわれている。実際に三人は、ネルソンが購入したロンドン郊外のマートンの家で、共に暮らすほど親密で、様々な憶測を呼んだ。
 一方で、軍人としてのネルソンの活躍は続く。一八〇一年四月二日のコペンハーゲンの海戦でも、勝利を収めた。このとき、右目に望遠鏡を当てて、「何も見えんぞ」と、臨機応変の命令無視をさせたという逸話が伝えられている。
 ネルソンの戦功の中でも、もっとも輝かしいのは、なんといっても、ナポレオン戦争の最大の海戦「トラファルガーの戦い」だ。一八〇五年、イギリス上陸をもくろむナポレオンは、支配下にあったフランスとスペインの連合艦隊に、イギリスの艦隊と対決し、海上封鎖を解くように命じた。イギリス海軍が敗れれば、ナポレオン軍の本土上陸を許してしまう――まさに、イギリスの運命を握る海戦であった。
 当然のことながら、イギリス側ははこの海戦にネルソンを送り込む。決戦となった一〇月二一日、ネルソンは提督用の長衣(フロツク・コート)をまとい、左胸にはバス勲章、トルコの三日月勲章、ナポリ王国の勲章二つの、それまで授与された四つの異なった星形の勲章をつけるという目立つ格好で、戦列鑑「ヴィクトリー号」の甲板に立つ。
「せめて勲章だけでも外さないと、狙い撃ちにされてしまう」と、多くの部下が危惧したが、誰も止められなかった。日頃からネルソンはこう明言していたからだ。
「名誉ある振る舞いで貰ったのだから、これを付けたまま名誉ある戦死を遂げたい」
 戦闘に先立ち、ネルソンは後世に名文句として残る、かの信号を送った。
「イギリスは各員が義務を果たすことを期待する」
 艦隊全体から一斉に歓声が沸き上がったという。当時の海戦は、平衡した艦隊同士が撃ち合うのが常識だった?だが、ネルソン率いる英国艦隊は、二列縦陣を組み、敵の隊列を横から断ち切る形で突進して分断し、敵艦を各個に挟み込んで攻撃する――「ネルソン戦術(タツチ)」で攻めた。
 五時間の戦いの末、フランス側は三三隻のうち二九隻が撃沈、もしくは捕獲されたが、イギリスは沈没無しだった。しかし、ネルソンはこの大勝利を知らない。先頭を切って突入した旗艦の甲板上で銃撃を受けて、戦いの終わる三時間前に戦死したからだ。ネルソンは、救国の英雄として国葬に遇された。ロンドン中心部のウェストミンスター広場は、ネルソンを称えて「トラファルガー広場」と名付けられ、ネルソンの銅像が、敵を見据えるように、大陸に向かって立っている。

 

                          【了】

 

最後はいつもの通り、ななみちゃん

(,,Ő x Ő,,)✨カワユス!!✨

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もうひとかた、お馴染みのピー殿は、体調不良が解消されたもようです

ヾ(≧∇≦*)/シノブ-ウレシイ*¨*•.¸¸♪

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