清様のお城しりとりシリーズ第六弾 その1
前回は「上泉城」だったので、「み」ということで
「み」と言えば、外せないのが群馬の箕輪城ですね ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
さて、箕輪城とはどんなお城なのでしょうか
榛名山東南麓の丘陵上および北東と南西の平地部も含む、
東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約36ヘクタール(史跡面積=約19ヘクタール)におよぶ広大な戦国時代の平山城です。
築城は1500年前後。
長野氏が築城し、その後4代にわたって長野氏の本拠となります。
天文10年(1541年)の「海野平の戦い」で郷里を追われた真田幸綱公(幸村の名で知られる真田信繁の、祖父)が頼ったのも、長野業政公の居城である箕輪城でした
更に武田勝頼公の初陣が、この箕輪攻めとも云われています。(武州松山城攻めの可能性もあり)
長野氏は武田氏の西上野侵攻に対して、箕輪城を本拠に最後まで抵抗するも、
永禄9年(1566)に武田信玄公に落とされます。
その後は、武田氏(1566~1582年)、織田氏(1582年)、北条氏(1582~1590年)、徳川氏(1590~1598年)の手に渡ります。
箕輪城の重要性を示すかのように、各大名とも有力家臣を城主に配しています。
特に最後の城主となる井伊直政公は、徳川家康公の家臣のなかでは最大石高の12万石で入封しています。
廃城は慶長3年(1598)、井伊直政公が城を高崎に移したことにより、箕輪城は長い歴史に幕を下ろします
平成18年には「日本百名城(日本城郭協会認定)」に選定されました
箕輪城の縄張りの変遷は大きく分けて三期あり、
一期は長野から武田の縄張り、
二期は後北条支配時、
三期が井伊直政公の時代となります
つまり今ある遺構は井伊の時代ということになりますね。
と、前説はこのくらいにして、
さっそく攻めてみましょう(相当な広さなので分割してお届けします)
まず、上記地図の現在地から進入しますね。いきなり大堀切ですよ
階段はなんだか萌えます
やがて突き当たりますので、上に登りますね
ちょうど行った時は工事だったそうです
これは郭馬出です。周りの堀ですよ
この堀はやがて東側の堀へと繋がっています
次に行く前に、リニューアルした郭馬出を見てみましょう。
これこれ。これを造ってたのだ!
堀と一緒だとこんな感じだです。黄金に輝いているようですね(๑•̀.•́ฅ✧
郭馬出の南側はこんな感じ
中はこんな感じで、この先が二の丸です
内部は土塁も復元されていました
東側の堀を降りてきてから振り返ると、二の丸が見えます
更に道を進むと搦手口に出ます
そこから、北に向かいます。横には大きな堀が見えますが、草が生い茂っていますね(ΦωΦ)フフフ・
更に進むと新曲輪の登場。
新曲輪の反対側にある稲荷曲輪は、草に覆われています
そのまま進むと新曲輪の先が変わった形状になりますが、これは丸馬出?
そこから、今度は南に入ります。すると左手に深い堀があり、先程の稲荷曲輪の堀なのです。
そのまま進むと前にこんもりした山が見えて、御前曲輪のようです。この部分は堀が集合しています
と、今回はここまでです。次回に乞ご期待!
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