『歴史街道』様に「七尾城の戦い」の記事を載せて頂いたというツイートをしたところ
フォロワーさんのたか様
から、七尾城のお写真を頂きました
(◕‿◕✿)シノブ ウレチイ!!
たか様は、ピー殿とキュー姫のご主人様です
ピー殿
キュー姫
さて、七尾城のお写真です
石垣、かっこいい(๑•̀.•́ฅ✧
カーブに風情を感じます
おおお、頂上?
攻めにくそうな曲がりくねった道
たか様、ありがと宇都宮氏は藤原宗円が祖
紙面の都合から自主的にカットした能登畠山氏の説明も、ついでといっては何ですが、載せておきます
足利氏一門に畠山基国(もとくに)という有力武士がいた。基国は室町幕府の№2の地位である「管領」を務め、能登、河内、紀伊の守護も兼務する大物であった。
その基国の次男・満慶(みつのり)は、応永一五年(一四〇八)、河内・越中・紀伊・能登の四か国治めていたが、能登国のみの守護となった。これをもって「能登畠山氏」の始まりとする。
初代満慶、二代義忠と在京が続いたが、応仁・文明の乱を経た文明十年(一四七八)に、三代畠山義統(よしつな)が能登に下向し、在国する。能登畠山氏の分国経営は、この義統によって基礎が固められた。
畠山氏の能登支配は、七代義総(よしふさ)(一四九一~一五四五)の時代にもっとも安定したといわれる。
ところが、天文20年ごろには「畠山七人衆」と呼ばれる重臣たちに、領国支配の実権を奪われてしまう。
九代畠山義綱は実権を取り戻そうとするが、逆に父・義続とともに能登追放の憂き目に遭う。義綱は上杉謙信や一向一揆に支援を求め、永禄一一年五月に帰国作戦を決行するが、失敗。入国の夢が叶うことはなかった。なお、謙信は同年の三月に越中へ出兵しているが、それは義綱の帰国作戦に呼応するものだという。(『定本 上杉謙信』)このとき謙信に協力を求めたことが、のちの「七尾城の戦い」の原因の一つともいわれている。
以後、七尾城と能登国の実権は重臣が握り、畠山当主は傀儡と化す。義綱の次に擁立された義慶(よしのり)以降は、誰がいつ畠山当主を継いだかさえ、はっきりしないほどだ。
「七尾城の戦い」当時の当主も、幼少の「畠山春王丸」とする説も、「畠山義隆」とする説もある。義隆にいっては前述の「義慶」と同一人物ともいわれるが、ここでは『新修 七尾市史』に従って、七尾城の戦い当時の当主を「畠山義隆」としよう。
義隆の時代、七尾城では長綱連、遊佐続光、温井景隆の三氏、とりわけ、長氏、遊佐氏が有力であった
この畠山義隆の時代に、畠山重臣たちの専横を排除しようという名目で、能登に乗り込んできたのが、上杉謙信である。